原始的な排泄行為とトイレ権②
- 2017年01月01日
- 阪神淡路震災でのトイレ大混乱
学校が避難所に変貌
激震後、全壊・半壊の住居からわずかな防寒着で近くの学校に避難してきた人々。寒さに震え余震に震えていた。
「早く校門を開けてよ!」
「保健室には薬があるはずよ!」
中央区の摩耶小学校には、小笠原侃教頭(当時)が到着した。連休明けのため早めに自宅を出た。自家用車は途中で激震に遭遇。鼓動が高まる。6時15分頃に小学校に到着。
校門には200人を超す近隣からの避難者が毛布にくるまったり、着の身着のままで集まっていた。校門の鍵がかかっていて校内に入れずにいた。
「わあ、先生、よう来てくれた。」皆が大声で叫んだ。
小笠原は校門の鍵を開けた。この時、彼は咄嗟の判断で避難者の居場所を選定した。最初は体育館に入ってもらった。
「次の方たちはこちらにどうぞ!」
校舎の1階から4階まで順次誘導した。特に高齢者や障碍者は優先的に1階に入ってもらった。災害弱者に配慮しさらに教室の人数を調整した。避難者たちは秩序良く校舎に入れていった。避難者はこういう先生がいたことに感動した。
校舎に入って1時間経った。学校のグランド、体育館、教室は避難してきた住民たちでごったがえしていった。
こうして、地域の小・中学校が俄に「避難所」としての機能を開始しはじめた。
「また余震や!おい、大丈夫か!」
激震のパニック、頭が真っ白になった状態から2時間、4時間、6時間と経っていく。余震が打ちつづく。必死で避難してきた住民たちも少しずつ隣にいる人たちと話すようになった。
「どうやってここに来た?」
「何を持ち出した?」
「あのおばあさん、ここにいるやろか?」
「あのなあ、落ち着いたら1度家に帰ってみんといかんな!」
「もう家はあかんわ。ムチャクチャやわ。人でかけてもようかたづけられんな。」
「腹減ってきたな。」
皆口々に喋っていた。・・・・・・まだまだ避難住民集団は形成されるどころではなかった。
寒いことに気づき、腹が減っていることに気づき、顔見知りがいることにも気づきはじめた。
一時的に落ち着きを取り戻した。同じ被災者たちとは激震の模様などを詳しく話せるようになったからか、緊迫感や緊張も少しずつ緩んでいった。
山下亨著 阪神・淡路大震災と新潟県中越大震災の教訓 「トイレが大変!」災害時にトイレ権をどう保障するかより引用
写真は、ハマネツ製 イクストイレ ポンプ式簡易水洗タイプ 兼用和式 [TU-iXF4]
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